RUIN

さよなら、月の

人の隣で生きること

 都会一人暮らし言うと田舎で過ごすより孤独感を感じそうなものだけど、実際はそうでも無いのかもしれない。閉塞的な環境下の息苦しさも、常に人の隣で生きているからこそなのではないだろうか。

 たまの休みにこうして地元を離れると、あまりの人の多さに呼吸を忘れそうになる。正確には「呼吸のタイミングが掴めなくなる」だ。すれ違った人にこの喉の詰まりを勘づかれているのでは?とすら思い込んでしまうほどに、人の波は私の心を追い詰める。

 

 あるバラエティ番組で、上京したての女子大生が「人が泡だ」と言っていたのを思い出した。街に溢れる誰も彼も、一度すれ違った時点で繋がりは消える。浮かんで弾けて消えてしまう泡も、同じ泡と出会うことは二度と無い……そう考えれば詩的な表現だと思う。他にもよくある例えで、「人がゴミのようだ」がある。私はこっちの方がずっと自然な感想だと思っている。だって、何千何万という人間が一度に視界に入った時、いち人間として感情移入をする事はとても難しいことなのではないだろうか?「幾万のゴミを見つめる私」ではなく「同じく幾万の泡になる私」になる、その捉え方の違いは一体どこから来るもののせいなのだろうか?

 モヤモヤしながら人波をかき分け、たどり着いたデパート*での服屋でトップスを手に取った。気が付くと店員が隣にいる。

 

*少し話が逸れるが、ショッピングセンターというのは田舎臭くて嫌だ。デパートというと年寄り臭く感じる。「それでも都会の人々はたくさんのテナントが収容された何階にも連なる建物をデパートと呼ぶのだ、ちなみに田舎にデパートなんてひとつもあらへんねん……」そう教えこまれてきた。私はずっとそれを信じて生きてきた(それはそれでどうなんだ)。だが蓋を開けてみれば、こんな田舎にも一応デパートと呼ばれるものはあるらしいし、今までデパートと呼ぶ店の例として教えられてきたもののいくつかは、正式には「大型ショッピングセンター」だった。嘘ばかりの世の中である。

 

「こちら色違いもごz」

「い、いえ。結構です」

 手に取っただけで?話しかけんな!オーラを出しているだろうが。

……雑貨屋を訪れる。

「可愛いですよね、私も持ってるんです」

 見ただけで?話しかけんな!オーラを出しているだろうが。

……文房具屋を訪れる。

「大変スマートなフォルムになっていて」

 オーラを以下略。

 ここは全てが干渉される場所なのか。人の輪ってここまで早く展開出来たっけ?と感心しながら、数多の優しさや気遣いや忖度で血の滲んだ喉を労る。でも、この痛みが何より孤独でない事の証明足り得るのではないかと痛感する。きっと暖かいのだろう。

 泡にはなりたくないけれど、将来は、一人暮らしをしてみたい。